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カレラ創業者、最後のインタビュー 2

ー 自転車選手になって、いちばん嬉しかったことは?
ダビデ 1年目のシーズンが終わって、自分と両親のために家を買ったときですね。私の両親はずっと賃貸住宅にいたので、自分の家を持ったことがなかったんです。
ー マリア・ローザではない。
ダビデ 着たには、着たんですけど……
ー そんなもんですか。
ダビデ あれはブレッシアのステージで、ひとりで逃げて勝ちました。それで暫定1位になったんです。
ー すごい、まさに夢に描いたのでは。
ダビデ その前日まで、チームメイトがマリア・ローザを着ていたんです。だから結果として、友だちからピンクジャージを奪ったことになってしまい、嬉しいばかりではなかったです。
ー やさしいんですね。ところで、現在のレースや選手を見て、なにが変わったと思いますか?
ダビデ まず、選手は有名人になると同時に、お金持ちになりましたね。昔は自転車選手って、全然かっこいい職業じゃなかったんです。そこが今と大きく違う点です。
ー 娯楽は昔の方が少なかったのに。
ダビデ 昔はなんとか食費を稼いでいるだけで、バス代も払えない選手がたくさんいました。
ー ええええ
ダビデ 私が会社を興したのも、貧しさから逃れるためという側面がありました。引退後、私はプロチームの監督になりました。そして、1987年にツール・ド・フランスにチームのエースだったステファン・ロッシュが優勝しました。
ー ジロ、世界選手権も勝って……
ダビデ そうです。トリプルクラウンを達成しました。当時、チームはバッタリンの自転車に乗っていました。
ー カレラチームですよね。
ダビデ ええ、ヴェローナにあるジーンズメーカーがメインスポンサーでした。あの年、レース以外で稼ぐ手段があれば、その利益がチーム活動に使えると思いつきました。軌道に乗れば、チームのスポンサーが降りても、スタッフを安定して養っていける、と。
ー そうなんですか。すぐにフレームを作り始めたんですか。
ダビデ フレームを生産するまでに2年、市販するまでに3年かかりました。
ー むずかしかった。
ダビデ そうでもないと思います。87年のシーズンが追われるとL・バラッキが現役を引退したので、彼にセレーナで修行を積んでもらいました。当時、有名なフレームメーカーと言えば、デ・ローザとコルナゴ、セレーナの3つ。セレーナは近所だったし、私はピエロ・セレーナから息子のように可愛がられていたんです。
ー セレーナはどんなフレームでしたか?
ダビデ とても快適な自転車でした。ピエロはライダーの求める目的に対して的確なポジショニングを理解して、最適なジオメトリを作り出せる人でした。私の最初のロードバイクだったというのも、特別な縁があったのだと思います。
ー 特別な縁ですか。
ダビデ 私は運に恵まれてきたと思います。初めて乗った自転車がセレーナだったのも、カレラジーンズのイメリオ・タッケーラさんとの出会いも、ついていましたね。
ー どんな具合に。
ダビデ 会社が設立した当時、最大の株主はタッケーラさんでした。それがカレラというブランド名になった大きな理由のひとつで、もう一つはポルシェのカレラというモデルの高級でスポーティなイメージもいいなと思ったのです。
ー デニムとポルシェ。
ダビデ カレラという商標については、いろいろな話し合いがもたれました。そして現在、自転車に関して私たちはカレラという名称が使えるように完全に合意しています。
ー そういえば、工場もデニム工場の跡地でしたね。
ダビデ ええ。そういったこともタッケーラさんのサポートがあったから実現しました。
ー そうだったんですね。
ダビデ だから、96年までのモデルにはカレラジーンズのトレードマークであるフラッグが必ず入っているんです。それは取り決めがあったからなんです。
ー カレラのフレーム第一号は誰のために作られたのですか?
ダビデ 最初のロットはすべてプロチームに渡しました。
ー 誰かまでは……
ダビデ 誰がいちばんだったんでしょうね、わからないです。
ー 90年代初頭のカレラというと、C・キャプーチが白と青のディアブロカラーで大活躍していましたね。
ダビデ そうそう、あれはカレラジーンズのデザイナーが思いついたアイデアで、ヒルクライマーはグリーン、パープルはスプリンター、それ以外の選手にはライトブルーを渡しました。
ー その後、M・パンターニやM・バルトリといったトップ選手とともに、一気にブレイクしたわけですけど、モノ作りをする上で目標した会社やブランドはありましたか。
ダビデ 尊敬という意味に於いてはフェラーリです。1981年にチームのメンバーとマラネロにある工場を訪問しました。そこでエンツォ・フェラーリさんと知り合う機会がありました。
ー わ、すごい名前が出てきました。
ダビデ 少し話をしただけで、彼が偉大な人だと理解しました。そして、ゼロからあんな大きな工場を作りあげたということに感動しました。
ー モノ作りとか人柄じゃなくて。
ダビデ 後日談があるんです。数日後、エンツォから自筆の礼状が届いたんです。考えてみて下さい、フェラーリの社長ですよ。今でも、まだ大切に保管しています。
ー それは宝物になりますね。
ダビデ その経験から、常に謙虚であるべきだということを学びました。だから、フェラーリには尊敬の念を抱いています。
ー では、自分の会社で誇りに思えることはありますか?
ダビデ どうでしょう、あるとすれば……
ー はい
ダビデ 小さい会社ですが、一応、ロードバイクやロードレースが好きな人には世界的に知られていることでしょうか。
ー そうですね。
ダビデ 忘れてはならないのは、それを可能にしてくれたのは自社のスタッフだけでなく、日本をはじめとする世界中のパートナーの力があり、多くのユーザが支えてくれているからです。
ー ちょっと話題を変えます。イタリア国内だけでフレームを作っている会社は皆無に近くなってしまいましたが、この先、どのように変わっていくと思いますか。
ダビデ イタリア国内だけでフレームを生産するのは、もう昔話です。ロードバイクやレースが好きな人たちは、イタリアの文化を深く理解し、愛情を注いでくれる人たちが多いので、どこで誰が作ったかよりも、そのプロダクトが魅力を維持できるか、否かが大切です。
ー マーケティング戦略は。
ダビデ それも必要なのでしょう。でも、無用と思える戦略もあります。
ー ……
ダビデ カレラもエアロバイクを作っているし、これは私が古いのだと思います。でも、ライダーも跨がっていない自転車を実験室に入れることに、どれだけの価値があるのか。自転車は屋外を走るモノだし、違いを生むのはチューブの形状ではなく、ライダーのポジションです。
ー では、あなたにとって、いい自転車とは。
ダビデ 自転車はクルマや女性と似ています。相性によって、よかったり、よくなかったりします。最終的には個人のフィーリングだけが、それを決めることができるんだと思います。
ー 会社を息子に譲渡するにあたって、願いはありますか。
ダビデ 最近の自転車はステイタスシンボル的な要素を併せ持つようになりました。しかし、お金持ちになったからカレラを買うのではなく、カレラに乗れるように仕事を頑張ろうと思ってもらえるようなブランドになってほしいと思っています。また、私は『なにをされても復讐はしない』ことを是としてきました。接する人に尊敬を抱き、あとは彼が良しとする道を歩んでくれればいいと思います。
ー 今日はありがとうございました。
ダビデ 次はブレッシアで会いましょう。

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ダビデ・ボイファーバ
1946年11月14日生まれ。ポディウムs.r.lの創業者。輪聖エディ・メルクスのアシストを務め、ジロ・デ・イタリアでマリア・ローザを着用したこともある。指導者になってからは世界選手権、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスを同一年に制するトリプルクラウンを達成したステファン・ロッシュ、山岳王のクラウディオ・キャプーチ、マルコ・パンターニを見いだした名伯楽として知られる。
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ポディウム公式アカウントです。ヨーロッパのロードバイクシーンがナニを考え、どのように問題に取り組んでいるのか……をお伝えします。http://www.podium.co.jp/

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