フレンチフライの王様
ポメスキング。
ドイツでMTB選手をしていた12年間、僕はそう呼ばれていた。ポメスとはフレンチフライのことで、僕はその王様というわけだ。
僕の名前はステイン・デフェルム。ステインサイクルズという小さな会社のオーナーであり、テストライダーで、雑用もこなす台湾在住のフラミッシュだ。日本人の妻がいて、友達は僕のことをポメスキングではなく、ステインと呼ぶ。
僕が生まれ育ったベルギーのフランドル地方は、皆さんも知っての通り、自転車の盛んな地域である。父方の叔父はプロ選手で1965年にはパリ〜ツールで3位、1966年は国内選手権で優勝している。
大したことないと思われるかもしれないが、この程度の成績でも、ベルギーでは引退した後も名前を忘れられることはない。それほど自転車競技に熱狂的な人たちが集まっている地域であり、僕はロードレース会場でちょっとは知られた血筋を引いている。
しかし、僕が惹かれたのはロードレースやシクロクロスといったベルギーで人気の競技ではなく、BMXやモトクロスといったアメリカンなスポーツだった。ついでに言うと、親はサッカーなどをさせたがったが、僕は社交性に乏しく、まったく向いていなかった。
オフロードを走りはじめたのは12歳の時。シティバイクのフェンダーをはずして、静かな森の中で父親と一緒に乗ったのがきっかけだった。今でも覚えているが、それはとてもエキサイティングな体験で、テクニカルでむずかしいコースは僕を夢中にさせた。
恐らく、僕にはちょっとだけオフロードを上手に走る才能があったのだと思う。父が着いてこられなくなるまでに大して時間はかからなかったし、僕はオフロードのレースに挑戦したくなった。
フランドル地方ではシクロクロスが人気スポーツであり、それ以外のオフロードレースに家族の理解を得るのは簡単ではない。それでも、ロードレースもやるという条件付きで、叔父がMTBを買ってくれた。
春から秋はロードレース、冬はシクロクロスという典型的なベルギーの自転車少年らしいシーズンが始まった。大したトレーニングをしなかったし、才能もなかった。ロードレースで学んだのは同じレースに出場する半分以上の選手が、自分よりも強いということだけだった。
シクロクロスはテクニカルなコースだと上位に食い込めることもあり、ベルギー選手権で7位になった。フランドル地方では、14〜15歳の少年がレースでいい成績をあげると、プロになることを期待される。
極端な言い方をすれば、もう学校どころではなくなってしまう。周囲から大きな期待を寄せられ、進路はプロ選手しかないように勘違いしてしまう。日本なら野球や相撲が似たようなものだろうが、実際にプロになれるのは一握り。ジュニア選手の好成績には、そうしたリスクが伴う。
1994年、MTBのレースで成績が残せるようになった僕は、フランスで開催されるヨーロッパ選手権にナショナルチームの一人として選ばれた。XCは話にならない成績だったが、代役として初めて出場したダウンヒル(DH)はチェーンを切りながらも12位になれた。
自惚れたことを言えば、チェーンを切っても12位。切らずに最後まで走れたら……と思うと悔しさもあったが、この結果は嬉しかった。そして、部品メーカーのマルゾッキとシンテシーの代理店がスポンサーになってくれ、翌年も世界選手権に出場できることになった。
速さを証明したい。
選手ならば、誰だってそう願う。僕は速さに自信があったので、それを表現できる場所をずっと求めていた。
ダウンヒル競技は、肉体的にも精神的にも極限まで追い込む。急峻な斜面に描かれたコースは、普通の人が見れば足がすくむようなルートだ。そこを時速60㎞で、タイヤ1本分のレコードラインを外さぬように走り、ジャンプして宙を舞う。上手く走れたときの快感は、他と代えがたいものがある。
時間にしたら5分程度だが、最大レベルの集中力を保ち続けるのは相当に体力が必要だし、相応に疲れる。しかも、上位を狙うなら、大きなリスクを覚悟しなければならない。
世界のトップライダーのタイム差は、1位と20位で十数秒しかない。2秒以上遅れれば、決勝には進めないこともある。そして、フランスの国際大会で4位になった。このとき初めて世界チャンピオンという目標に近づけたように感じた。
フランスの国際大会の後、リスクを負うことの危険性を、僕は望まないかたちで知ることになった。ベルギーのレースで転倒。骨折して手はあらぬ方向を向き、1年以上を棒に振ってしまう。
レースに復帰し、所属するチームを変えた。でも、ワールドカップや世界選手権での定位置は20位前後が精一杯だった。言い訳をするわけじゃないが、DH競技では機材の違いもタイムに結びつく。当時のチームには感謝しているが、そのチームには勝てる機材がなかった。
運が良ければ……といっても仕方ないことは知っている。それでも、世界チャンピオンになる資格がまったくなかったとは思わない。でも運も実力のうちならば、それも僕には足らなかった。
競技の一線から退き、職業に就こう。
僕は自転車デザイナーになろうと思った。当時の自転車業界にはデザイナーという役割はなくて、まだエンジニアしかいない時代だった。
ハノーバーでの出会い
フランクフルトから約300㎞ほど北に行くと、ニーダーザクセン州の州都ハノーバーがある。ルネッサンス様式の見事な新市庁舎や、17世紀に作られたヘレンハウゼン王宮庭園の幾何学的な庭園があり、時間さえ許してくれるなら、ゆっくりと数日かけて観光したくなる街だ。
その街の中心部からクルマで30分、世界最大級のメッセ会場がある。そこで行なわれていた国際貿易展で、僕はとても小さくて魅力的な自転車メーカーを見つけた。その会社は日本でも大ヒットしたBD-1という小径車を作っていたr&m(ライズ&ミューラー)社だった。
彼らの小さなブースで、簡単に自己紹介をした。
「私はステインという、デザインの勉強をしている学生です。あなたたちが作っている自転車、大変すばらしいと思います。DH選手だったので、アルミフレームやサスペンションのことも理解しています。ぜひ一緒に仕事をさせてください」というような話をした。
すると……
「おもしろい。では、一緒に仕事をしましょう」
「ドイツ語が話せませんが、大丈夫ですか?」
「この仕事にドイツ語は必要じゃないでしょう」
当時のr&m社は20人にも満たない小さな会社で、とても風通しのいいオープンな雰囲気が漂っていた。さらに、入社して間もなく、すぐに設計する機会を与えられた。さらに、慣れてきたら生産拠点の台湾に行って……と、すぐに先のビジョンも示された。
フリーライドのイベントにゲストで呼ばれたり、選手のような活動もしていたが、レーシングバイクを作るつもりはなかった。それはやりたい人がたくさんいるし、僕の目指すものでもなかった。なので、このシティバイクを作っている小さな会社が最善であり、すべてが順調に感じられた。
当時、僕は23歳。ドイツの一般的なキャリアの積み方であれば、これから大学院で勉強を始める年齢だ。すぐに製品の開発や設計を手掛けさせてもらえるチャンスなんて、そうそうあるものじゃない。そして、僕が台湾へ向かったのは2年後ではなく、3カ月後だった。それだけでも、この当時のスピード感が、どれだけであったか想像がつくだろう。
台湾での経験はエキサイティングで、実際にフレームを作る現場と関わっていく仕事に大きなやり甲斐を感じた。大学時代、僕が得意にしていたデザインは家具やショッピング街のアーケードとかで、自転車を専門に勉強したわけではなかった。自転車の設計を学ぶ場所もなかったが、選手時代に培った経験で理解していることも多かった。
当時の台湾にはスポーツバイクを作ることはできても、楽しむという文化がなかった。僕は若くて経験不足のデザイナーではあったが、サイクリストとして経験には自信があった。彼らと課題に取り組み、製品が改良されていくのを目にするのは、自信と経験につながった。また、自転車界には工業デザイナーが必要だという確信を持った。
ロングテールと新たなる旅立ち
話は前後するが、r&mに入社して最初に手がけたのが、ニューマスターというユニセックスのシティバイクの設計だ。アヴェニューというモデルを改良したもので、今でも僕のお気に入りである。
リタイアした世代のためにデザインした自転車で、外観上の特徴はチェーンを外から見えないようにケースに入れ、サスペンション機能が着いていた。当時の価格で2000ユーロもするモデルで、現在の高級シティバイク市場の礎を築いた新しいコンセプトだった。
残念ながら、ニューマスターはドイツの国内モデルという背景もあり、積極的なプロモーションが行なわれなかった。それでもマイナーチェンジを繰り返しながら、2015年まで販売されるロングセラーとなる。
デザインとは、ひたすら輝きを増すべきもの。
このお気に入りのニューマスターと大ヒットモデルのBD-1は、いろいろなことを考えるきっかけを作ってくれた。
時を同じくして、会社は新しいコンセプトのバイクを毎年、あるいは2年ごとに投入することにした。それは僕の
“優れたデザインはタイムレスである”
というフィロソフィーと相容れなかった。
新製品を絶え間なく投入する考え方は、現代における当然の戦略だとも理解している。僕は少しばかり仕事に退屈していた。会社の業績は伸びたが、社内における僕のキャリアは終わったのかなと感じた。そして、シュワルベのタイヤを設計したり、セラサンマルコでサドルのデザインをしたり、新しい可能性を模索し始める。それがステインサイクルズ誕生のきっかけとなった。
つづく